兵庫県議会議員みなみ但⾺選出 藤⽥ 孝夫(ふじた たかお) オフィシャルサイト

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藤田孝夫

日本遺産申請! 

「めざせ 日本遺産 銀の馬車道 鉱石の道」フォーラムが開催されました。
明延鉱山は最盛期約4000人が働いていましたが昭和62年閉山。  生野鉱山は48年閉山ですが、最盛期は生野町の人口2万人でした。戦後復興期は自給的な農家や林家がまだ多かった時代、生野と明延は住民の殆どが田畑に出ることなく鉱山関連会社で働きサラリーをもらって生活していた。生活物資の殆どを購入して暮らす現代風の生活様式だったようです。当然地域での消費経済高が大きかった。
 
鉱山の物資部(顧客にとっては購買部)には大きな売店がありましたが、魚、野菜、乾物の食品をはじめ衣服、靴、その他雑貨などを当時必要なものはすべて取りそろえたフルラインの品ぞろえを誇る百貨店でした。私の初めてのスキー板も八鹿ではなく、明延で買ってもらいました。 生野高校へは明延からの大勢の生徒が来ていました。三菱の寮があってそこから通学し週末は一円電車で 帰っていました。
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鉱山、養蚕、木材は戦後の復興、経済発展を支えた産業の原材料(素材)でした。 鉱石の道、銀の馬車道エリアは日本経済を原材料生産、運搬するという経済的必然性があったのです。プラザ合意後、円高と・・・で採掘コストが合わなくなり閉山となりました。加工貿易立国へ加速は、国内原材料から安価な海外原材料へシフト、太平洋側沿岸部での加工・輸出に必要な労働人口集中、など現代日本の産業分布の原型はこの時期(30年代)に確立されたのです。大屋町や生野町は労働力が要らなくなった、職を失ったにとどまらず、日本の産業を支える経済を支える機能(素材供給)を失ったことを意味しました。 ~当時は他にも、養蚕(グンゼ)木材(原木の無関税輸入開始)の供給機能も失う~ いわば福祉的居住地域への移行?
それでも産業遺産登録で建屋の維持保管、伝統行事の継承などでその価値を今までずっと温めながら維持してきました。近年では生野銀谷祭り(かなやまつり)、明延一円電車祭りなど外部からの応援を得て地域価値を高める取り組みもスタートしています。市町、商業界、教育機関ほか関係各位の努力に敬意を表します。   
富士山や東京スカイツリーは誰でもその稜線の綺麗さや高さが解ります。しかし我々の取り組む日本遺産登録 銀の馬車道、鉱石の道にはそんな単純に目立つものはありません。各地に点在する小さな原石を磨き繋ぎ ~半周遅れは時代のトップ~ 今から鉱物は供給しませんが、歴史文化、地域の人々の伝統風俗など無形のものを発掘し(選鉱)磨き(精錬)運んで行かねばなりません。近現代で日本の産業を支えた歴史・誇りを地域固有の資産として再び脚光を浴びるよう日本遺産登録を目指します。
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